2015年05月31日

不動産英語塾英文リーディング講座の説明の無料ミニ講座を行います。

7/1(水)〜不動産英語塾にて英文リーディング講座を担当します!
6/6(土)18:15〜
6/10(水)19:15〜
にその説明の無料講座を行います。

どなたでもご参加頂けます!
詳細はこちら。
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2015年05月30日

アメブロを始めました!

アメブロを始めて、テスト記事を書きました。

『ジャストインタイムリーディングのイメージ(テスト)』
http://amba.to/1G9qTcA
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2014年07月20日

「プロローグ 受験英語の巨星・伊藤和夫」


「プロローグ 受験英語の巨星・伊藤和夫」

 抗癌剤の副作用と激痛のもとで、伊藤和夫は『予備校の英語』の原稿を1行また1行と、あえぐように書き進めていた。病院のベッドに横たわる彼の腕にも鼻にも、たくさんのチューブが取り付けられている。
 入院前の伊藤は毎日深夜2時すぎに起きて、予備校のテキストや模擬試験の作成、雑誌の連載記事や単行本の執筆という膨大な仕事を驚異的な速さで進めていた。その勇姿はもうない。
 病室を訪ねた編集者の心配する声を振り切るかのように、伊藤は言った。
 「僕には時間がないんだ」
 こうして1997年(平成9)年1月中旬、『予備校の英語』の最後の原稿を編集者に手渡した。
 1週間後、伊藤は静かに息を引き取った。
 遺著となった『予備校の英語』が出版されたのは、その年の12月だった。この本は、予備校教育に生涯を捧げた伊藤和夫が、その強靭な思索と実践によって書き上げた英語教育論の集大成であり、遺言だった。その最後のページは、炎のような言葉で締めくくられている。

「 英語教育の何たるかを知らぬ人が結局は大学・高校・中学の英語を支配している状態、それを何とかしなければ英語教育の未来は暗いというのが、最近の筆者の実感である。」

pp2

 伊藤の著作は数多く、「書いた原稿1万ページ、売れた本1000万冊、教え子100万人」という説すらある。伊藤は山手英学院英語科主任時代の1964(昭和39)年に刊行した幻の名著『新英文解釈体系』をはじめ、『英文解釈教室』(1977)、『英文法教室』(1979)、『英語長文読解教室』(1983)、『ビジュアル英文解釈(T・U)』(1988・89)、『ルールとパターンの英文解釈』(1994)など数多くの英語参考書を執筆し、いずれもベストセラーになっている(本書第5章と6章で詳述)。
 ところが意外なことに、受験英語界の巨星となる伊藤自身は英語の受験勉強を経験していない。伊藤が一高に入学した1944(昭和19)年は太平洋戦争末期で、敵国語である英語が入試から排除されてしまったからだ(本書161頁)。そのため、伊藤は山崎貞や小野圭次郎などの著名な受験参考書をほとんど使っていない。既存の参考書の影響を受けなかったことが、『新英文解釈体系』に始まる独創的な英語学習書を生んだ一因かもしれない。山崎や小野らの英文解釈法は、伊藤にとって乗りこえるべき仮想敵となるのである。
 受験英語の洗礼を受けていない伊藤は、英語に苦手意識を持っていた。そのため、一高では「英語会」というサークルに属し、1ヶ月に500頁から1000頁の英書を読むという課題をこなした。サークル内では、1000頁を超すトルストイの『戦争と平和』の英訳版を1日足らずで読み飛ばすという壮絶な多読競争も行われたという。
 のちにカリフォルニア大学の英文学教授となるマサオ・ミヨシ(1928〜2009)を英語会に誘ったのも伊藤和夫だった。ミヨシはノーム・チョムスキーやエドワード・サイードとも親しかったが、伊藤を「僕が人生で出会った中で最も頭の良い男の一人」で、一高での成績はいつも1番か2番だったと回想している(『抵抗の場へ』32頁)。伊藤はカントをドイツ語で読み、フランス作家の作品をフランス語で読み、英米の現代小説をミヨシに紹介した。このころ伊藤は悪性の結核を患っていたが、彼の命を救ったのは、アメリカ占領軍で働いていたミヨシが軍から横流ししてもらった抗生物質のおかげだった。成績優秀な伊藤は助手として東大に残ると思われていたが、大学卒業後は予備校に就職し、周囲を驚かせた。

pp4


 伊藤和夫は哲学科出身だけに、思索と体系化の人だった。否定は発展のモメントだというが、伊藤も自著に対して仮借のない批判を加えることで、たえず進化をとげた。たとえば、第6章で詳しく述べるように、彼の最初の単著『新英文解釈体系』(有隣堂、1964)は、「主語+動詞+[ X + X ] 」と「修飾・非修飾」という2つの原理で英文解釈の方法を体系的に叙述したもので、その後の「伊藤英語学体系」の骨格を形成した歴史的な文献である。だが、この本に対して伊藤は「若さに特有のひとりよがりに満ちています」(『予備校の英語』175頁)と厳しく自己批判し、周囲に見せようとさえしなかった。首尾一貫性と体系性を追求するあまり、出題の頻度や重要度といった学習参考書としての使いやすさを犠牲にしてしまったからである。しかし、参考書という制約を除けば、『新英文解釈体系』は、S+O+V型の文型に親しんだ日本人がS+V+O型の英文を頭から読むときの思考の流れを意識化させ、その視点から英文の基本構造を独自に再構成し、首尾一貫した原理で体系的に叙述した、英語教育史に残る画期的な著作である。
 1966(昭和41)年に駿台高等予備校に移籍すると、そこでの思索と実践をふまえて、伊藤は『新英文解釈体系』を進化させた名著『英文解釈教室』(研究社、1977)を刊行する。しかし、この本に対しても伊藤は次のように自己批判する(『予備校の英語』54〜55頁)。

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 「直読直解への具体的な方法の一つの提示」(同書「はしがき」)と名乗るにはこの本は徹底性を欠き、線の方向性にこだわることによって開かれる展望がいかに豊かでありうるかについての見通しもなかったこと、それが二十年の歳月を通してふり返った場合の筆者の最大のうらみであった。
 『解釈教室』の執筆当時、筆者は従来の参考書と異なった総合的視点と説明の論理的方法を発見したという喜びまたは思いこみに夢中で、研究論文を書くことと、学生向けの参考書を書くことのちがいがわかっていなかった。従来から重要とされてきた構文や、その存在に気づかれていなかった構文のいかに多くが、「新しい」観点により統一的体系的に説明できるかを誇示することに熱中するあまり、それが果たして学生に必要であるかどうかに思いいたらなかったのである。
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 前半は直読直解という伊藤がめざした方向性への不徹底さ、後半は独自の知見と体系性に執着しすぎて、学習者にとっての利便性を犠牲にしたことへの自己批判である。これらは『新英文解釈体系』に対する二度目の批判でもあり、伊藤が「哲学者」から「英語教師」に脱皮するための仮借ない自己批判であった。
 こうして、彼は次なる傑作参考書群の執筆へと邁進する。その一つの到達点が『ビジュアル英文解釈(T・U)』(駿台文庫、1988・89)だった。「ビジュアル」とは、この参考書で勉強すれば「英語の構造が見えてくる」という意味で、「教師でなく学生の立場に立った参考書」(同書「はしがき」)である。体系性へのこだわりは薄れ、重要かつ出題頻度の高い項目に力点が置かれ、読みやすくわかりやすい記述に徹している。
 芯のある柔軟さ。伊藤はしだいにその境地に入りつつあった。

・・・

 日本人の英語学習法は、日常生活を通じて自然に英語を習得する英米人とはおのずと異なる。日本人にとって、英語は外国語として学習する言語であり、特に知的に発達した高校生レベルでは「理解力と分析力」を使って英語の仕組みを合理的に理解させる英文法が不可欠である。理屈もわからずに、ただ反復を重ねれば自然に身につくというものではない。そんな時間も必要性もない。こうした外国語教育論の基本を忘れ、文部省(現・文部科学省)は財界の意向に沿って会話中心の「使える英語」を学校教育に要求し、その反面で文法やリーディング、ライティングを軽視してきた。伊藤が「英語教育の何たるかを知らぬ人が結局は大学・高校・中学の英語を支配している状態」と言った一因は、このあたりにもあるようだ。
 1990(平成2)年、伊藤は駿台英語科主任を高橋善昭に譲る。その高橋は『英文読解講座』(研究社、1986)、『英文和訳講座』(研究社、1990)などの優れた参考書を書いている。ともに伊藤の強い影響が読み取れる本である。
 主任の重圧から解放された伊藤は、これまで以上に執筆に精を出した。1994(平成6)年には『テーマ別英文読解教室』(研究社)を刊行した。伊藤自身、「文の先頭から英文の流れにそって直読直解してゆくときの頭の動きがどのようなものかを分析した点でも、筆者のこれまでの『英文解釈法』の集大成と言ってよい内容になっている」と太鼓判を押す作品である。すでに60代後半に入った伊藤の精神的境地を反映してか、意識の目覚めから死に至るまでの人間の一生を念頭において全22章が配列されている。
 続いて伊藤は、これまで対象としてこなかった高校1年生や2年生向けの英文解釈法を追求した。その成果が高1レベルの『英文解釈教室 入門編』と高2レベルの『英文解釈教室 基礎編』(ともに研究社、1996)だった。さらに翌年には『英文和訳の十番勝負』(駿台文庫、1997)を刊行する。生徒との対話形式で解説を進め、勉強法を伝授しながら英語を読めるように導くという親切な構成だった。かつては「東大スーパー」などのハイレベル・コースを担当していた伊藤が、英語が苦手な生徒たちのところに自ら降りて行き、階段を一緒に上るようにして学力を引き上げていくという筆致である。
 こうして、1964(昭和39)年に初めて姿を現した伊藤和夫の英文解釈体系は、晩年に至るまで進化を続け、入門レベルから上級レベルまで、短文から長文、そしてテーマ別に至るまでの壮大な体系に深化発展したのである。
 しかし、運命は過酷だった。1996(平成8)年になると、伊藤の大腸癌は肺に転移した。全身を襲う痛みの中で、伊藤は『英文解釈教室』の改訂作業を続けた。病室のベッドの上で、学生たちの反応を想像しながら書き上げたのである。こうして、例題の英文はそのままに、解説の部分が格段にわかりやすくなった。直読直解に至るプロセスも明快になった。伊藤が言うように、「教師もまた学生によって作られる」のである。
 自らの生涯の総決算である『予備校の英語』の原稿も、チューブにつながれながら執筆した。しかし伊藤は、最後まで心血を注いだ2つの本とも目にすることはできなかった。1997(平成9)年1月21日未明、静かに息を引き取ったのである。その数時間前、遠ざかる意識のなかで、担当の看護師たちにていねいにお礼を言った。
 「私はもう逝きます。たいへんお世話になり、本当にありがとう」
 これが最後の言葉となった。
 独身で生活も質素だった伊藤の死後には、十数億円の貯金が残された。その貯金は、妹との連名で看護学校の奨学金として赤十字に寄付された。

 明治以降における英文解釈法の歴史を振り返るとき、南日恒太郎(1871〜1928)、山崎貞(1883〜1930)、小野圭次郎(1869〜1952)などとともに、伊藤和夫(1927〜1997)の業績が特筆大書きされることはまちがいない。
 伊藤和夫の英文解釈法は、英文和訳にとどまることなく、英文を英文のまま直読直解する方法を切り拓いた。その点で、旧来の英文解釈書の改良的な延長ではなく、革命的な転換をもたらした。もとより伊藤の業績を評価するためには、英文解釈法のみならず、英文法や英作文、さらには『予備校の英語』に代表される英語教育論も含めた「伊藤英語学体系」というべき全体を対象にしなければならない。その評価については奥井潔(1924〜2000)が次のように述べている(「伊藤和夫氏 頌」9頁)。

「 日本の英学史の中で、英語を学ぶ日本人全体の基礎底辺部に及ぼした影響と浸透度を考えると彼の業績は偉大な英語学者、たとえば市河[三喜]・細江[逸記]らのアカデミックな業績にも比肩する輝かしい貢献であった。たとえ受験産業が崩壊し受験生など存在しない日が到来しても、日本の英語教育界、英語学界は、彼の業績の前を素通りすることは絶対にできないと私は信じている。」

 英語教育史を専攻する私としては斉藤秀三郎の名前も加えたいが、それ以外は奥井とまったく同意見である。
 予備校講師だから、受験参考書だからという理由で英語教育史の研究対象にしないのならば、いつまでたっても日本人の英語教育史・学習史の本当の姿は描けない。伊藤和夫をはじめとする受験英語にかかわった綺羅星の如く居並ぶ英語教師たちや、彼らが残した膨大な学習参考書が、そのことを如実に示している。

pp5〜pp10
posted by tapestry7 at 13:24| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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